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ブラジル

 死んだ母方の祖父が夢に現れて、「迎えにいこう」と誘ってきた。向かった先は、父方の祖父母の家だった。毛布にくるまった祖父の亡骸を前に、「まだ眠っている」と話す。抜け殻となった毛布の山をながめた。何人かがここにいて、出ていったらしい。

 視界がまぶしくなった。誰かが、締め切ったはずのカーテンを開けたのだ。廊下に出てみると、先日他界した祖父はいつの間にか起きていて、ライトイエローのシャツにネクタイを締め、お気に入りの帽子を被り、「なんでこんなに暗いんだ!」とカーテンや雨戸を開け放っていく。

 もう生きている人がいなくなったからだよ、と話しかけた。

「今日、船が迎えにくるんだ」と祖父は晴れ晴れとした顔でいう。
 とても晴れて気持ちがいいから。さっき、みんなが船をもってきてくれたから。もうすぐ出かけようと思う。

 どこに行くの、と聞いてみた。

「ブラジルへ行くことにした」

 ブラジル。女性と旅行が好きな人だとは分かっていたが、いきなりブラジル。ひと月ほど前に、祖父母が世界中を旅行して回っていたアルバムをみた。ブラジルで撮った写真もあって、とてもいい笑顔だった。

「明日には旅立って、もうこの家にはいなくなるよ」

 それは大変だ。家族では私しか知らないから、知らせる間は待ってくれないかな。そう言おうとしても、もう船の音が聞こえてくる。私は、せめて家族に知らせようと飛び出したが、間に合わないことが分かった。祖父は窓や雨戸を開けて空気を通していきながら、すこし残念そうに言う。

「せめて、風呂に入ってから出かけたかったなあ」

 家の外では、ずっと前に他界していた妻である祖母が、髪を黒々とさせて立っていた。いつも家族の間で物議を醸していた柄ものの上下に、お気に入りの赤い毛糸のショールを羽織っている。唇も赤かった。

 船に乗るにあたり、と青い服をきた警察官のような人が、寄り添う祖父母に説明を始めた。

 どんどん軽く明るくなる空気を感じて、本当にいなくなってしまうことが分かり、祖父の痕跡を探そうとして雨戸を抜けて家にはいった。霊体のような体で移動する家の中は、少し勝手が変わっていた。通り抜けやすいところや明るく感じるところ、暗く感じるところが、肉体のときと少し違うのだ。
 
 風呂場から音が聞こえた。向かってみると、血のような赤錆の水が湯気を立てながら、浴槽にほとばしっていた。たまにしか入浴できない祖父が、風呂をありがたがっていたことを思い出した。

 船があるはずの港は、海面が光りすぎて、金色になってしまい、影も見えなかった。青い服のひとが、こちらに向かって一礼している。風呂はまだ溜まってないけど、祖父は、もうブラジルへ行くことにしたらしい。

 最初に私を誘いにきた母方の祖父は、船に乗る人だった。私の田舎では、死んだ魂を船にのせて、海へ送り出す。目が覚めて、真っ先に思ったこと。祖父の彼岸はブラジルなんだろうか。

ライティング・ワークショップ

先日の滞在先では、思わぬ縁でヒーリングに関わることになって面白かった。海写真その他もあるので、近日ぽつぽつとUPする。←殆ど料理の写真だがな…

十姉妹とは、なんとその後、手に乗って穀物をついばむほどの仲に発展している。荒鳥というのか、人になつくことのないまま成鳥になったので、過度な期待は禁物……と自らを戒めていたのに! これではもうメロメロになるしかない。

今では、カゴに挨拶すると、出入り口に集まってきて歌ったりピョコピョコと尾をふりながら、手を待つように。か、か、かわいい……! 

文鳥やスズメと仲よくなったことはあるけど、十姉妹がなつくとは思わなかった。手に二羽乗ってもまだ余白があるくらい、とても小さい小鳥だ。つがいなので、一羽はメスで卵をうむ。おっとりした子で、下手すると食べながら手のそばで眠りはじめる。卵をうみきると、すごく穏やかな顔になるのは「母」だなあと感じる。オスは今では、手を入れると指や髪の毛に向かってラブソングを歌ってくれる。なんだと思ってるんだろう。

以前、仕事で少し関わっていた縁が、つながっていることに気がついた。最近になって急に児童の成長に関した教育書や書籍によく出会う。ガイドもおすすめしているので「私がそういった仕事に関わるのだろうか?」と疑問に思っていた。実際は、クライアントさんに出会った時に、「ああ、この方に紹介しろということか!」とやっと了解することが多く、私の仕事は、本当にメッセンジャーにすぎないのだとよく分かる。

ということで、今日も思わぬ出会いがあった。

ライティング・ワークショップ―「書く」ことが好きになる教え方・学び方
ラルフ・フレッチャー (著), ジョアン・ポータルピ (著), 小坂 敦子 (翻訳)

書く力について、以前ワークショップ内でも紹介したことがあったが、これは小学生を対象にしたワークショップや授業の研究例だ。表紙には外国の児童が書いている写真が載っている。

私は、書くように促すガイドが小さい頃からいたので、この「何でも書くこと」にたびたび危機を救われた。昔の話になるが、暴力を受けて、恐怖で声が出なくなったことがある。そのときに、文や絵を書けることが、私を救ってくれた。表現や創造性をふさがれるとき、人はとても苦しくなる。(愛も、受け取るより表現できなくなったときのほうが悲しい)

また、この本では「他人に読んでもらうこと」も通して子供達が自主的に取り組んでいく様子も伺え、昔の経験を思い出しながらうなずけるものがあった。まだ親の気持ちは分からないけれど、子供だったことがあるから、こんな授業が嬉しかったことが分かる。(私の小学校時代の先生たちは、今思うとよく偶然が続いたなと思うくらい全員がよくこんな授業をしてくれて、以後書くことが大好きになった)

また苦しくて声が出なくなった頃、文章や表現の仕事を紹介されて「伝えることを諦めないよう」ずっと励まされていた。ただ吐き出すだけでない表現を、当時、編集者に色々教えてもらった。コミュニケーションとしての書き方を教えてくれたのだ。

一部スパルタ的だったり、放り出したくなる衝動を抑えて冷静に深く追求し続けるようなシビアなときもあったけど、小学校の経験から始まり、あの頃までの経験は本当に役に立っている。

当時、お世話になった編集者には「右脳でしか活動してない人だ」と何度もいわれた。その頃、私はそういったものを毛嫌いして表現していなかったが、サイキックだと断言されて面白がられた。風変わりだと言われようが伝えるべきところは伝えて、自分の至らないところは別として認めるよう根気よく教えてもらった。

(もしかすると、自分でそう認めてしまったほうが、楽に話せるようになると知っていて、「そういった感覚を恐れるな」と励ましてくれたのかもしれない)

妙な世界を垣間見ていることを個性として楽しんでくれて、「伝えることに貪欲になって、諦めないこと」を教えてくれた。子供はとくに、風変わりであると笑われると恐ろしくなり、以後その話題は口にしなくなる。なんとか、伝わる表現で外に出していたほうが健全なのではないか、と思う。

スピリットの世界に勇気を持って向きあったのも、この経過があったからだと思う。はっきりいって、この世界は胡散臭いものが多すぎる。実際に感じるタイプの私でも率直にそう思う。だから、この世界に入る時には、なにがあっても、正直に自分の感覚に従おうと思った。取り組んでいる人は、あくまでただの人間なのだ。

つい、ごまかしたり、耳障りのいいようなカッコいい言葉をいって「聖なる言葉」を話したくなってみたりする気持ちは分かる。でも、伝えることに貪欲になるというのは、けして自分をごまかさないということだ。

直感や伝えなくてはいけないときがきたら、なるべく整形せずに話す。本当は「この言葉じゃ分かってもらえない」と分かっているのに、耳障りのいい言葉で自分や相手をごまかさない。(傷つけないといった配慮とごまかしは違う)

言葉だけでなく、絵や態度、行動にもそれはある。無言で伝えるのが最上なら、それをやる。もしかすると、もっといい方法があるかもしれないことを忘れずに、コミュニケーションを探る。きっと一生探り続ける。

妥協しない点をもったことで、私は、たぶんスピリチュアルのブーム的な要素からは外れている。(あまりヒーリング好きじゃないし……)

この本を読んでいて、私は偶然にも(偶然ではないけど)表現を諦めさせない環境に恵まれていたということが分かった。そして、今の子供達にこういったツールがあれば、きっと生涯で彼らの表現や自尊心を支える役に立つのではないかと思う。たぶん親御さんや大人にも役に立つはずだ。

……先日から、人に伝える必要があるものがくる気がしていた。セッション中には漠然とした内容しか浮かばなかったのだが、今日になって「子供の適性が様々であること」と「その適性における可能性のひとつ」として、この本のあった書棚の前までまっすぐに導かれた。

(私は本をよく読むせいか、たまにめったに行かない書店に導かれて、まっすぐ、その一冊があるところまで引っ張られることがある)

今回はガブリエルが関係していた。数日前から、一日に3度は「ガブリエル」という言葉をテレビ画面や著者リストから見つけていたのだが、本に出会って「ああ、こういうことか!」と分かった。

本についてもだが、児童について、書くことについてなど、ご縁のあった方々と共に、一緒に考えることができたことに感謝している。特に最近はこの傾向が加速していて、きっとご縁のあった方は、子供達、また将来にむけて大事な仕事を持っている方なのだろう。

29日まで九州 / カード類の浄化について

・ご用の方は携帯電話にご連絡ください。23日〜25日・28日は携帯に出れない時間が多いです。

・ご縁があって、イベントにリーディングで参加することになりました。(すぴこんではありません)時期が近づいたら告知します。

飛行機が大好きなので、とても楽しみ。←乗れるだけで嬉しいタイプ 自然と触れ合う時間がけっこう取れそうなので、寒かろうが、空いた時間は遠出してサイクリングでもしようかと。

年間休日の半分近くを海に潜って暮らしている友人がいて、久しぶりに会うことにした。なぜか待ち合わせが山。丘。「ちょうど間を取った」って、なんの間だろうか。彼女は話していて、海中の音がきこえてブルーがたなびくくらい、知り合いの中では「海!」って感じの深く広い人なので、とても楽しみ。

彼女は魚を名前でなつかせるという不思議体験の持ち主だ。年開けて、名前を呼ぶと魚が寄ってくるという男の話を耳にして、ピンとひっかかっているうちに、今回の九州行きが決まった。シンクロニシティだ〜。

今回の旅行とか、セッションでいつも厳選するのが荷物の重さ。重い荷物が苦手なので、持ち物は厳選する。セッションではクライアントと相性の良いモノ・そのセッションにベストマッチするものを選ぶ。

たまに該当するものが複数出てくる。最近の記録更新では、相性良さそうなツールが9種類くらい浮かんだ方だった。絞っても4種。それは複雑な背景だったりガイドが色々いたり、部屋にモノがいっぱいあったりする方だったりと、そのセッションにより理由が様々だということに気づいた……。

こんなときは「一番軽くなる組み合わせで!」とオーダーして選びなおす。長時間移動するようなときは、小さなライダータロットにしたり。道具はぶっちゃけ、なくてもいいのだ。

クリスタルも同じで、余分かな、と思うようなときは、たいてい人に差し上げて帰ってきてしまう。旅の荷物も含めて、だんだん心地よい量というのが分かってきたような。



セッション以外のシーン、たとえば自分がワークショップに参加したときなどに持ち歩いていた種類のカードがある。大天使カードがそれで、ワークショップ以外でも、カフェの片隅でテストリーディング中など、人目にさらしがちなシーンで使っていた。個人的にも苦しい時に助けてくれたカードで、人の目があるところで使わなければいけないときは、常にこれを持ち歩いていた。

現在もリーディングには問題なく使えるのだが……

ある時から、このカードがとてもモヤモヤしてきた。現在、このカードはセッションにはあまり使わないし、自分で手にしたときも、持っただけで目くるめく情報に圧倒されて、しばらくして戻してしまう。使えば使えるのだが、なんというか、「たくさんの人がいる」のだ。カードに触れる(意識で焦点を合わせる)だけで、色々な人の情報が感じられる。

この状態が何を意味するのかは分かる。浄化的な措置も試みたけれど、これはそういう「霊的ヨゴレ」ものではない。クリアになるならしてほしいくらいだけれど、完全な出荷状態にはもう戻らないだろう。

このカードはあまりにも情報や思念の雑多な場所にさらされてしまったのだ。浄化措置をしてもまだ情報が読める。箱に手を伸ばすたびに、その情報が目を引く。

クリアリングは、ストレスを減らす助けにはなるが、情報自体は残り続ける。私を通したレンズで見る限り、これは見え続けるだろう。

箱もボロボロになったこのカードばかりを、なぜ人の前に持ち出していたのか、自分の行動の理由が分かった。情報にさらして負担をかけるカードを、一種に絞っていたのだ。

(現在は、こういった情報を吸い込みやすそうな場所には、買い替えが容易なライダータロットのミニ版を持ち歩いている←けっこう売ってるし安いし……)

以前、クライアントから渡されたものを握って、その持ち主の状態をリーディングで読んだことがある。(クリスタル等のエネルギーリーディングもしているが、それとは違うセッションで、ご家族の状態を見るものだった)

そのときも、部屋でひとりになったときに行う微妙な癖や仕草といった情報から、よく歩く道の風景、そのとき誰に助けられていたかなどが分かった。

ものは情報を保存するのだ。

カードを持っている方、保管には気を使い、容易にさらさず、染み込ませるなら自分の情報をしみこませましょう。←どの道なにかは染み込むので、自分の部屋の情報とか、あまり邪魔にならないものがよろしいかと

クリスタルや持ち物も同様に。あの情報の膜に気がつかない場合は、特に読み初めのときはインスピレーションが混線するかもしれません。

<うっかりカードに染み込んだ情報を読むこともあるってことです

私は、それが誰の情報なのか見える。クライアントと切り分けられるようになったので、今は問題ない。それにしても……けっこう凄い感じになる。うっかり、そんなカードを持っている方(作ってしまった方)は、別の楽しみ方ができるかも。



これを完全にクリアにできる(「なかったこと」にできる)ワザがあったら、知りたい! 場の情報源に全て返してしまう(金色の海へ戻す)方法を最近ガイドから聞いて使っているのだが、この方法、見えなくはできても、視点を変えると容易に呼び戻せるのだ。ストレスは減っても、見ようとすれば痕跡から見える、という。

昔から、植物に強いガイドに色々教わっていたのだが、最近はこういった情報源に関する金色のガイドに教わっていることも多い。

以前、ワークショップ中に、金色のほうへと進むようになる……とその時パートナーになった方(一部改名でアザラシさん)に仰られたことがあったが、今になると、このことかぁと納得がいく。

<ということで、いまさらだけど、アザラシさん、思い当たることがありました。

ということで、クリアリングや浄化というのは、「完全に何もなくなること」ではないのだ。エゴに影響されたすべての意識的な視点は偏見であり、それによって取りすぎたスナップショットを情報源に戻して、プレーンな視点を取り戻す試みなのだ。

現実に対しても、同じように最近思う。

傷は、癒されるというより見えなくすることができる。視点を変えて犠牲者に戻れば、痛みを戻すことができる。人生で起きた経験の全てを「なかったこと」にはできない。たとえ記憶喪失になろうと、整形で体を直そうと、情報は残るのだ。

できるのは、愛情ぶかい情報の海に視点を戻して、見えるものをかえること。うまくいけば、痛みは少なくなる。もっとうまくいけば、元気になることさえある。

植物とジュウシマツ

3年前、机に置くために、鉢を入れて高さ25センチほどのパキラを買った。100円だった。暫くして妙にモッサリと伸びたので、鉢を変えてベッドサイドに移動した。それから2年。170センチを超えたパキラが毎朝私を見下ろすようになった。葉のサイズは指くらいだったのが、今では手首から中指までを超えている。

何を吸って伸びたんだろう。

栄養剤などは与えず、拳大のクリスタルの結晶を置いているだけだった。一時期、サイキックの知り合いが口を揃えて眉を寄せながら「緑色……植物が凄く見える」と言っていたが、きっとこのパキラが顔を出していたに違いないのだ。外出中に自分の部屋を思い出しているようなとき、なぜかパキラがでしゃばってイメージに必ず割り込もうとする。

このパキラ、実はマカダミアナッツのように美味しいらしく、その期待を一身に浴びていたはずなのだが、花の気配もなく巨大になった。

その鉢を移動することにして(さらばパキラ)、ジュウシマツの横に置いた。ジュウシマツ、パキラにおびえる。葉っぱが揺れただけで、「ビクッ!」として大騒ぎしている。

ジュウシマツは慣れない群から2羽をいただいたもので(本当か分からないのだが、絶滅危惧種並みに珍しいものらしい)、人になつかない鳥達だ。水から掃除から、手をいれるとこの世の終わりのような騒ぎになる。パキラは、人が近くにいるよりはいいだろう、と目隠しに置いてみた……つもり……だった。

ジュウシマツ的に株大暴落した私。ここしばらく、ジュウシマツたちにとって私は「水や餌を変えて、葉っぱを入れてくれる無害な人」であったはず。今や巨大パキラを持ち込んだ張本人だ。心なしか、こちらを見つめてくる目が何かを訴えている(カゴにしがみつかれている)。申し訳ないので、パキラを離す。最初は小松菜にさえ怯えていたからなぁ……。

お詫びに、水いれを取って、入れ替えてやることにした。毎回パタパタと騒ぎになるので、いつも「手を入れるから、逃げなさい」と宣言して手を入れる。最近は慣れたもので、宣言するといそいそと逃げるようになった(ちょっと悲しい)。

でも、今日は違った。

逃げなさいと私が言うと、なるべく距離をとっていたジュウシマツたちが、わらわらと止まり木に寄ってきた。どうした。ジュウシマツ。

しかも、手を入れたら……手に、手に乗ってきた! あわわわわわ……ジュウシマツより私が怯える。温かい! 座ってる! どうしたの?!

巨大パキラのショックで頭が混乱しているのだろうか。思わず敬語で話しかける。ジュウシマツ、どかない。しばらくして飽きたのか、手から止まり木にピョンと飛び降りて、ストレッチ。

それからも、手にはもう乗ってこなかったが、近くに腰を降ろすと寄ってくるようになった。なんだろう、この株の急上昇は。もしかして、巨大パキラを遠ざけてくれた人として、昇格した……?

奇跡の海

先日の記事で書いた「全体を包括している金色の海」について、追記する。たぶん、探さなくてもいいのだと思う。愛がないとできないようなことを、世界はずっと私達に行っている。

金色の海は、すべてが等しく持つか、あるいは触れている領域だ。「誰か」はどの空間に存在しようが、どの時間に存在しようが構わない。もしくは人でなくてもいい。全く何もないような空間でも、そこには、金色の領域が均等に広がっている。領域は恐らく、無限に広がっている。

金色の領域には、境目がない。常に全体がある。全体は個々の集合ではなく、常に一つでしか存在しない。つまり、何かと何かの"切れ目"は存在しない。

これを見ているあなたと、目の前のPCは別のものではないということになる。全体の中で「あなた」という収束をとって浮かび上がる何かと、「PC」という収束をとって浮かび上がる何かが、あなたという一部からの認識を通すと、「まるで互いが個々に存在している」ように見えて、「まるで関係している」ように感じているだけなのだ。

あなたは元々境目のない存在なのだ。

あなたと、目に映るすべては、全体である領域が、気まぐれな収束をとった風景の一部になる。私たちは、誰かであるというよりは、金色の海に浮かぶ「状態」でしかない。

私達は、世界のどこからも切り離されていない。それならば、あなたが「わたし」と考えた以上、あらゆるものは繋がり「わたし」となる。あなたがどこかに「愛」があると信じているなら、必ずあなたが愛だ。世界に期待したなら、必ずあなたが持っている。

金色の海は基本的に「ない」ことができない。あるか、隠すかしかできないのだ。全体が等しく持っているもので、「ない」という状態がそもそも存在しないのだ。

愛を探しても見つからないなら、たぶん、愛はある。あなたという一部からの限定された条件を通して「ない」ように見せかけるために隠される。

なぜ愛があると、期待するのか。それは、「愛」の原型を私達は覚えていて、それを求めてしまうからだ。何もないものが想像できるだろうか。求めたなら、全体は必ず愛を持っている。そして、どこかに愛があるなら、全部にある。全体にあるなら、あなたにある。あなたの一部である胸やハートにあるのではない。全体が等しく愛を持っている。足も髪の一本に至るまでだ。外で雀が鳴くなら、彼らの音も愛の波形であり、つまり、あなたが愛なのだ。

世界や宇宙は金色の海を持っている。そこは、あなたが目を向けた先で、あなたに向かって手をさしのべる。あなたが関わる姿勢によって、スペクトルを変えて姿を見せるのだ。

どうして、「これが愛だ」と決め付けて、「これは愛でない」と分けてしまうのか。個々なんか存在していない。あなたは常に、全体であるあなたを評価している。

私たちの目に見えているものは、全体の一側面である「わたし」という収束の立場から、スナップショットで切り取っただけの風景にしかすぎない。

たとえば、山の風景を写した写真を見て、「山には反対側が存在しない」とはいえない。あなたの目からは隠れているだけだ。

見えないものは、ないのではなく、金色の海に隠れている。そこは、すべてのものが等しく存在を許されている場所なのだ。

どんなに絶望的な状態になっても、金色の海は、あなたが世界を見つめる限り、あなたに向かって手をさしのべている。

会えない人にも、手をさしのべて欲しい。金色の海の中で、その人は、あなたに手をさしのべ返す。もう一生あえなくても関係ない。それは、金色の収束を忘れたあなたの認識にすぎず、海の中では等しく存在が許されている。時間も空間もなく、手をさしのべ続けている。

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