先日の記事で書いた「全体を包括している金色の海」について、追記する。たぶん、探さなくてもいいのだと思う。愛がないとできないようなことを、世界はずっと私達に行っている。
金色の海は、すべてが等しく持つか、あるいは触れている領域だ。「誰か」はどの空間に存在しようが、どの時間に存在しようが構わない。もしくは人でなくてもいい。全く何もないような空間でも、そこには、金色の領域が均等に広がっている。領域は恐らく、無限に広がっている。
金色の領域には、境目がない。常に全体がある。全体は個々の集合ではなく、常に一つでしか存在しない。つまり、何かと何かの"切れ目"は存在しない。
これを見ているあなたと、目の前のPCは別のものではないということになる。全体の中で「あなた」という収束をとって浮かび上がる何かと、「PC」という収束をとって浮かび上がる何かが、あなたという一部からの認識を通すと、「まるで互いが個々に存在している」ように見えて、「まるで関係している」ように感じているだけなのだ。
あなたは元々境目のない存在なのだ。
あなたと、目に映るすべては、全体である領域が、気まぐれな収束をとった風景の一部になる。私たちは、誰かであるというよりは、金色の海に浮かぶ「状態」でしかない。
私達は、世界のどこからも切り離されていない。それならば、あなたが「わたし」と考えた以上、あらゆるものは繋がり「わたし」となる。あなたがどこかに「愛」があると信じているなら、必ずあなたが愛だ。世界に期待したなら、必ずあなたが持っている。
金色の海は基本的に「ない」ことができない。あるか、隠すかしかできないのだ。全体が等しく持っているもので、「ない」という状態がそもそも存在しないのだ。
愛を探しても見つからないなら、たぶん、愛はある。あなたという一部からの限定された条件を通して「ない」ように見せかけるために隠される。
なぜ愛があると、期待するのか。それは、「愛」の原型を私達は覚えていて、それを求めてしまうからだ。何もないものが想像できるだろうか。求めたなら、全体は必ず愛を持っている。そして、どこかに愛があるなら、全部にある。全体にあるなら、あなたにある。あなたの一部である胸やハートにあるのではない。全体が等しく愛を持っている。足も髪の一本に至るまでだ。外で雀が鳴くなら、彼らの音も愛の波形であり、つまり、あなたが愛なのだ。
世界や宇宙は金色の海を持っている。そこは、あなたが目を向けた先で、あなたに向かって手をさしのべる。あなたが関わる姿勢によって、スペクトルを変えて姿を見せるのだ。
どうして、「これが愛だ」と決め付けて、「これは愛でない」と分けてしまうのか。個々なんか存在していない。あなたは常に、全体であるあなたを評価している。
私たちの目に見えているものは、全体の一側面である「わたし」という収束の立場から、スナップショットで切り取っただけの風景にしかすぎない。
たとえば、山の風景を写した写真を見て、「山には反対側が存在しない」とはいえない。あなたの目からは隠れているだけだ。
見えないものは、ないのではなく、金色の海に隠れている。そこは、すべてのものが等しく存在を許されている場所なのだ。
どんなに絶望的な状態になっても、金色の海は、あなたが世界を見つめる限り、あなたに向かって手をさしのべている。
会えない人にも、手をさしのべて欲しい。金色の海の中で、その人は、あなたに手をさしのべ返す。もう一生あえなくても関係ない。それは、金色の収束を忘れたあなたの認識にすぎず、海の中では等しく存在が許されている。時間も空間もなく、手をさしのべ続けている。
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